日本の植民地時代における朝鮮での創氏改名政策について、その背景、内容、影響を対話的に学びます。
このセクションでは、創氏改名政策の基本的な定義、目的、そしてその歴史的な結論を概観します。創氏改名は、1939年末から1940年にかけて日本の統治下にあった朝鮮で実施され、朝鮮人に日本式の氏名を名乗らせることを目的とした皇民化政策の一環でした。
この政策は朝鮮の伝統文化や民族的アイデンティティを否定するものであり、多大な精神的苦痛と生活上の困難をもたらしました。今日でもその歴史的意義は重く受け止められています。
このセクションでは、創氏改名政策が実施されるに至った歴史的背景と、日本政府の主な目的について解説します。1910年の韓国併合以降、日本は朝鮮半島で同化政策を進めていました。
日中戦争(1937年勃発)が長期化し、国家総動員体制が強化される中で、朝鮮人を「皇国臣民」として戦時体制に組み込む必要性が高まりました。精神的な一体化を促す手段として、朝鮮人の姓名を日本式に改める創氏改名が計画・実行されました。
韓国併合、日本の朝鮮統治開始。
日中戦争勃発。皇民化政策が強化される。
創氏改名に関する朝鮮民事令改正公布。
創氏の届出期間。
日本の敗戦、朝鮮解放。創氏改名政策の終了。
創氏改名政策は、「創氏」と「改名」という二つの主要な要素から構成されていました。ここではそれぞれの内容と、その運用実態について詳しく見ていきます。
朝鮮の伝統的な姓(せい)とは別に、新たに日本式の「氏(うじ)」を設定すること。
朝鮮式の「名(な)」を日本式の「名」に変更すること。
朝鮮総督府は、創氏を行わない場合でも不利益はないと公式には発表していました。しかし、実際には就学、就職、配給、行政サービスなど様々な場面で、創氏をし日本風の名前に改名した者が有利に扱われ、そうでない者は差別的な扱いを受ける事例が多発しました。このため、多くの朝鮮人が生活上の必要性や将来への不安から、不本意ながらも創氏改名に応じざるを得ない状況に追い込まれました。
創氏改名政策は、朝鮮社会に広範かつ深刻な影響を及ぼしました。このセクションでは、その実施率、朝鮮の人々の民族的アイデンティティへの影響、そして様々な形で見られた反応について説明します。
創氏改名の実施率は非常に高く、届出期間終了時には約80%の朝鮮人が創氏を行ったとされています。これは、前述のような社会的・経済的圧力や差別が背景にあったためです。創氏をしなければ、日常生活や将来において著しい不利益を被る可能性があったため、多くの人々が苦渋の選択を迫られました。
この政策は、朝鮮の人々の民族的アイデンティティや伝統文化を否定するものとして、強い反発や苦痛を引き起こしました。先祖代々受け継いできた姓を変えることは、朝鮮の伝統的な家族制度や祖先崇拝の観念と相容れないものでした。個人の尊厳や民族の誇りが深く傷つけられました。
創氏実施率(1940年8月時点、推定)
植民地支配という状況下で、公然とした大規模な抵抗運動は困難でした。しかし、一部の人々は、日本式の氏名の中に朝鮮の姓や本貫(ポングァン、始祖の出身地)を暗示する文字を入れるなど、ささやかな抵抗を試みることもありました。また、内心では屈辱を感じながらも、家族や生活を守るためにやむを得ず政策に従った人々も多数存在しました。
日本の敗戦と朝鮮の解放は、創氏改名政策の終焉を意味しました。このセクションでは、戦後に行われた措置と、この政策が歴史的にどのように評価されているかについて解説します。
1945年8月15日の日本の敗戦と朝鮮の解放により、創氏改名政策は法的に無効となりました。多くの人々は、解放後に元の姓名を回復する手続き(復姓復名)を行いました。これにより、失われた民族の名前を取り戻す努力がなされました。
創氏改名は、戦時下の日本が朝鮮において推進した皇民化政策の核心的な要素であり、多くの朝鮮人に多大な精神的苦痛と生活上の困難をもたらしました。この政策は、朝鮮の伝統文化や民族的アイデンティティを否定しようとするものであり、植民地支配の負の側面を象徴する出来事として、今日においてもその歴史的意義が重く受け止められています。日韓の歴史を理解する上で、避けては通れない重要なテーマの一つです。