創氏改名インタラクティブ・レポート

日本の植民地時代における朝鮮での創氏改名政策について、その背景、内容、影響を対話的に学びます。

概要

このセクションでは、創氏改名政策の基本的な定義、目的、そしてその歴史的な結論を概観します。創氏改名は、1939年末から1940年にかけて日本の統治下にあった朝鮮で実施され、朝鮮人に日本式の氏名を名乗らせることを目的とした皇民化政策の一環でした。

主要なポイント

  • 実施期間:1939年末 - 1940年
  • 目的:朝鮮人の「皇国臣民」化、内鮮一体の推進
  • 結果:約80%の朝鮮人が創氏(強い社会的圧力下で)
  • 戦後:政策は無効化、多くの人々が元の姓名を回復

この政策は朝鮮の伝統文化や民族的アイデンティティを否定するものであり、多大な精神的苦痛と生活上の困難をもたらしました。今日でもその歴史的意義は重く受け止められています。

背景と目的

このセクションでは、創氏改名政策が実施されるに至った歴史的背景と、日本政府の主な目的について解説します。1910年の韓国併合以降、日本は朝鮮半島で同化政策を進めていました。

日中戦争(1937年勃発)が長期化し、国家総動員体制が強化される中で、朝鮮人を「皇国臣民」として戦時体制に組み込む必要性が高まりました。精神的な一体化を促す手段として、朝鮮人の姓名を日本式に改める創氏改名が計画・実行されました。

当時のスローガンと論理

  • 内鮮一体:日本本土と朝鮮半島の一体化を目指すスローガン。
  • 皇民化政策:朝鮮人を天皇に忠実な「皇国臣民」とすることを目指す一連の政策。
  • 朝鮮総督府の説明:「朝鮮人の内地人(日本人)との差別感を解消し、真の内鮮一体を実現するための恩恵的措置」とされたが、実態は異なりました。

関連年表

1910年

韓国併合、日本の朝鮮統治開始。

1937年

日中戦争勃発。皇民化政策が強化される。

1939年末

創氏改名に関する朝鮮民事令改正公布。

1940年2月-8月

創氏の届出期間。

1945年8月

日本の敗戦、朝鮮解放。創氏改名政策の終了。

政策の詳細

創氏改名政策は、「創氏」と「改名」という二つの主要な要素から構成されていました。ここではそれぞれの内容と、その運用実態について詳しく見ていきます。

創氏(そうし)

朝鮮の伝統的な姓(せい)とは別に、新たに日本式の「氏(うじ)」を設定すること。

  • 「氏」は家の名称であり、戸主が届け出る。
  • 夫婦同氏、父子同氏が原則。
  • 届出期間:1940年2月11日~8月10日。
  • 公式には任意とされたが、実質的には強制的側面が強かった。

改名(かいめい)

朝鮮式の「名(な)」を日本式の「名」に変更すること。

  • こちらは「創氏」よりも任意性が強調された。
  • しかし、創氏と同時に改名するよう圧力がかかるケースも多かった。
  • 日本風の名前にすることで、社会生活での便宜が期待された。

公式発表と実態の乖離

朝鮮総督府は、創氏を行わない場合でも不利益はないと公式には発表していました。しかし、実際には就学、就職、配給、行政サービスなど様々な場面で、創氏をし日本風の名前に改名した者が有利に扱われ、そうでない者は差別的な扱いを受ける事例が多発しました。このため、多くの朝鮮人が生活上の必要性や将来への不安から、不本意ながらも創氏改名に応じざるを得ない状況に追い込まれました。

影響と朝鮮社会の反応

創氏改名政策は、朝鮮社会に広範かつ深刻な影響を及ぼしました。このセクションでは、その実施率、朝鮮の人々の民族的アイデンティティへの影響、そして様々な形で見られた反応について説明します。

高い実施率とその背景

創氏改名の実施率は非常に高く、届出期間終了時には約80%の朝鮮人が創氏を行ったとされています。これは、前述のような社会的・経済的圧力や差別が背景にあったためです。創氏をしなければ、日常生活や将来において著しい不利益を被る可能性があったため、多くの人々が苦渋の選択を迫られました。

民族的アイデンティティへの打撃

この政策は、朝鮮の人々の民族的アイデンティティや伝統文化を否定するものとして、強い反発や苦痛を引き起こしました。先祖代々受け継いできた姓を変えることは、朝鮮の伝統的な家族制度や祖先崇拝の観念と相容れないものでした。個人の尊厳や民族の誇りが深く傷つけられました。

創氏実施率(1940年8月時点、推定)

抵抗と受容の狭間で

植民地支配という状況下で、公然とした大規模な抵抗運動は困難でした。しかし、一部の人々は、日本式の氏名の中に朝鮮の姓や本貫(ポングァン、始祖の出身地)を暗示する文字を入れるなど、ささやかな抵抗を試みることもありました。また、内心では屈辱を感じながらも、家族や生活を守るためにやむを得ず政策に従った人々も多数存在しました。

戦後の措置と歴史的評価

日本の敗戦と朝鮮の解放は、創氏改名政策の終焉を意味しました。このセクションでは、戦後に行われた措置と、この政策が歴史的にどのように評価されているかについて解説します。

政策の無効化と姓名の回復

1945年8月15日の日本の敗戦と朝鮮の解放により、創氏改名政策は法的に無効となりました。多くの人々は、解放後に元の姓名を回復する手続き(復姓復名)を行いました。これにより、失われた民族の名前を取り戻す努力がなされました。

歴史的評価

  • 朝鮮半島での認識:民族的尊厳を著しく傷つけた、日本の植民地支配下における皇民化政策の象徴的な事例の一つとして記憶されています。
  • 日本国内での認識:この問題に対する認識や理解が十分とは言えない側面も指摘されています。
  • 歴史学的な評価:単なる姓名の変更に留まらず、個人のアイデンティティ、家族制度、民族文化に対する深刻な介入であり、植民地支配の抑圧的な性質を示す重要な事例として評価されています。

創氏改名は、戦時下の日本が朝鮮において推進した皇民化政策の核心的な要素であり、多くの朝鮮人に多大な精神的苦痛と生活上の困難をもたらしました。この政策は、朝鮮の伝統文化や民族的アイデンティティを否定しようとするものであり、植民地支配の負の側面を象徴する出来事として、今日においてもその歴史的意義が重く受け止められています。日韓の歴史を理解する上で、避けては通れない重要なテーマの一つです。